会報「阪神間の街道」をWEB公開しました

会員に配付していた会報「阪神間の街道」のバックナンバーをメインHPの方で、WEB公開しました。

メインHP:阪神間の街道をあるく

第1号の主な内容
 太田南畝の野田藤見物
   =今から200年前の野田・福島・曽根崎=
第2号の主な内容
 津戸ノ中道
   =秀吉中国大返しの道=

街道解明の調査過程等の地味な内容ですが、興味のある方はご覧ください。

[西宮市]郷土資料館に移設された旧はり半道標

本文はこちらにあります。
[西宮市]郷土資料館に移設された旧はり半道標(1)

[西宮市]郷土資料館に移設された旧はり半道標(2)

Hatenaのシステムが変わり、私の環境(MacIE)では画像の貼り付けが出来なくなりましたので緊急避難しました。

[尼崎市]救出された富松町の道標

富松町は阪急塚口駅武庫之荘駅のほぼ中間にあり、一般には富松城跡のある町として知られています。

その富松町の一角に道標を兼ねたお地蔵さんがありました。
少し東の辻から移設されて来たとのことですが、ガードレールに守られ、立派な台座の上に据えられて安泰であるように見えました。
ところが、以前撮影した写真のデータを無くしたので、2009年、再撮影のために訪問したところ、台座だけを残して道標部分が無くなっていました。

元は花が生けられ、近所の方により大切にされていました。

2009年の訪問した時にはまだ生けられた花が残っていましたが、2010年4月、捜索のために再訪してみると、かつてそこにお地蔵さんがあった形跡すらも無くなっていました。

周辺で聞き取り調査をしてみたところ、道標はある施設に保管されているとの情報を得ました。
さっそく訪ねてみると、情報通り道標が保管されていましたので写真撮影をさせていただきました。

道標は小川とガードレールのすき間に設置されていたのですが、その小川の川底に落ちていたのを発見した方が持込んできたそうです。
警察や市役所に連絡したが、所有者不明のものは扱えないということで帰ってしまい、やむなくそのまま預かっているとのことでした。
物が物だけに、捨てるということはないが、処置に困っているそうです。
この道標のあった辻は、尼崎から昆陽寺中山寺、有馬へのルートの内の一つにあたり、また逆に、西武庫地区から塚口、神崎を経て大阪に通じる道筋でもありました。

亡失したと思ってた道標に再会できて嬉しいかぎりです。
できれば、この道標が再び日の目を見ることを願っています。

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[大阪市]東中島の本庄街道道標


既に紹介した「宮原の横関街道道標」の近く、新大阪駅を挟んで南にもう一つの道標が残っています。
新大阪駅の東南、線路沿いの道から少し斜めに分岐しているのが横関街道で、その突当りのマンション入口脇に地蔵があります。

下2/3が道標を兼ねています。

道標から西に進み、JR線路あたりで左折して南に向い、本庄の渡しを渡ると大阪市街の曽根崎方面に行くことができます。明治時代には大阪府により「本庄街道」と呼ばれていました。道標に「右ほん庄」とあるのはこのことを指します。
「左よこせき」とあるように、東に進み、右折して南に向い、横関の渡しを渡ると、天神橋筋に出ることができます。

道標中央には「北かちおじ」とあります。
この道標は北面にしか文字が無く、北から南に向う旅人を対象にしたものですが、「北かちおじ」を書き加えることにより、北に向うと池田、箕面勝尾寺方面に行くことができることを示しており、一面だけで3方向に対応したとても珍しい例と言えます。
なお、そのような特殊な目的を果たすためか、方向を「北」で示していますが、東西南北を用いる手法は他に例を見ません。

明治末の新淀川開削時に本庄横関いずれの渡しも廃止されてしまいましたので、いずれの街道も新淀川をはさんで南北に分断されて街道としての機能を失いました。
ほぼ昔のままと思われる位置に残っていることだけでも大変貴重ですが、更に、本庄街道を示す唯一の現存道標と言う面でも、とても価値の高いものと言えます。

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[大阪市]宮原の横関街道道標


新大阪駅の北、住宅街の民家の前に道標が建っています。
交差点と言うわけでもなく、なんの変哲もない生活道路の途中にあり、どこか他の箇所から移設されてきたかのようです。


ところが現在の地図と明治初期の地形図を重ねてみると、この地点は旧北宮原村集落を通る街道の曲がり角であったことが分かります。
道標から南(大阪方面)へ向う道が消失したために、今では道標の設置位置としてふさわしくないように見える訳です。

この街道は、江戸時代以来、大阪から池田、箕面勝尾寺方面に向うメインルートでした。
明治になり、かつては十三経由で遠回りであった能勢街道に、中津川初の橋である新橋が架けられて近道ができ、池田方面への交通の中心はそちらに移りましたが、こちらのルートも横関街道の名前で大阪府補助里道に指定され、大阪市街東部から北摂への重要路でした。

明治末、新淀川が開削されて横関の渡し、本庄の渡しが共に廃止され、横関街道は役目を終えて時代とともに消滅して行きました。
移設されたり、設置方向が狂ってしまっている道標も多い中、これだけ周囲の環境が変わったにもかかわらず、かつての位置にそのままの向きで残っためずらしい例と言えます。

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