[西宮市]門戸の荒神道尼大坂道道標


『西宮の道標』で「おおさかのさかが土へんのふるい道標」として取り上げられ、「たっているというよりも埋められていると表現がピッタリである」と紹介されています。
道標が面している南北の道は西宮と宝塚方面を結ぶ街道で、「有馬道」「中山道」などと呼ばれ、明治時代は県道に指定されていました。また、大正10年の阪急今津線(当時は西宝線)開通以前には西宮と宝塚を結ぶ路線バスが通っていました。

この道標に最近、変化がありましたので報告します。
この道標は井上理髪店の軒下にありました。

ところが、2009年の11月に理髪店が閉店となり、店舗が民家に改装されました。

改装以前は、『西宮の道標』のころより更にうずもれていました。

改装に際し、甲東文化財保存会世話役の要請により、埋もれていた道標が全文が読めるまで引き上げられました。

引き上げ以前は、『西宮の道標』が問題にしている、おおさかの「坂」すらうずもれて読めなくなっていました。

引き上げてみると、「右尼大坂」に続けて、「高木」(西宮北口駅の北東地区)とあるのが判明しました。
また、まるで洪水時の水位の跡が建物などに記録されるかのように、過去の地面が2本の汚れの縞になって残っています。
現在の高さは77cm、下の縞が『西宮の道標』当時で高さ45cm、上の線が引き上げ直前で33cmですので、下部32cmが今回初めて見えるようになった部分ということになります。


なお、引き上げの結果、「荒神道」の面には「是ヨリ北五十丁」と書き添えられていることも判明しました。

亡失する道標もあれば、このように再び往時の姿を取り戻すものもあり、嬉しいかぎりです。
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[西宮市]郷土資料館の大阪道兵庫道道標

西宮市立郷土資料館には「広田の西国街道道標」の他にもう1基の道標が保管されています。
資料館の合田氏によれば、旧所在地も、資料館に持込まれたいきさつも不明だそうで、高さ約55cnの小さな道標です。

傷みが激しく、「大坂道」は鮮明ですが、その右面の「兵庫道」は何とか読み取れると言う状態です。他の2面から文字は読み取れませんが、元は何かが書かれていた可能性も否定できません。
合田氏によれば、字体や形状から見て、そう古いものではないと考えられるそうです。
「大阪」の「阪」が「坂」になっているから江戸時代であるとか、逆に「阪」の場合は明治時代であるとか言われることがありますが、必ずしもそのように線引きできるものでもなく、「坂」か「阪」かを根拠に製作年代を推定するのは危険です。

確実な旧所在地についての情報はありませんので、表記内容から推測してみます。
兵庫に通じる街道は西国街道、大阪に通じる街道は中国街道ですが、西宮市内で該当する辻は2箇所しかありません。
まずは、西宮神社の東南角です。

ちょうどこの位置には、現在、辻の向かい側から移設されて来た、寛政11年(1799年)建立の常夜灯型道標があります。


既にこの辻にはこの巨大な常夜灯型道標があったことと、神社の回りには多数の石造物が並んでいて、このような目立たない道標では埋没して役にたたないを考え合わせると、旧所在地としては不適当と考えます。

もう1箇所の候補地は本町筋の東端、与古道筋へ左折する角です。

大正時代まで、本町筋は正念寺の黒門に突き当たって行き止まりでした。そして今と異なり、与古道筋は南北に通じていました。
行先に京都が含まれていない点は気になりますが、この道標の存在が有効であるこの辻が旧所在地ではないかと推定します。

本町筋から北へ与古道筋を見た写真です。
ちなみに、ここからすぐ北方の京都方面と大阪方面が分岐する辻の北東角には江戸時代明治時代を通じて道標がありましたが、現在は所在不明です。

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[西宮市]広田の西国街道道標


宮崎延光著『西宮の道標』のp42に「御手洗川の川底から引き上げられた道標」として紹介されています。同書には、西宮市中央体育館に保管されていると書かれていますので、何度も中央運動公園内を探索しましたが見つからず、西宮市立郷土資料館に問い合わせたところ、現在は同館で保管しているとのことでしたので、見せていただきました。

西宮市内で、表示内容に合う辻は1ヶ所しか無く、地図の地点を旧位置と推定します。
東から御手洗川を渡ってくると、この辻に達します。
かつてはこのまま直進して打出に達し、兵庫に向うのが西国街道の本道でした。
ところが、江戸時代初期に西宮が宿場町として発展し、兵庫に向う場合もここで左折して西宮を経由するのが西国街道の本道となりました。
直進する旧道は、明治時代になっても、神戸方面への近道として残っていましたが、あぜ道程度の道幅に縮小されていた広田神社馬場先までの区間は、やがて消滅してしまいました。
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[西宮市]鳴尾の旧国道道標


宮崎延光著『西宮の道標』p26に「ご用がすんで寄付者宅へ返された道標」として紹介されている道標を見に行っていきました。
現在も、同書に記載されている住所にあり、寄付者の身内の方により大切に保管されていましたので、お願いして敷地内に入れていただき、写真を撮影することができました。

『西宮の道標』で、「右鳴尾」となっているのは「左鳴尾」の誤記であること、「大正十三年」は「大正十五年」が正しいことが判明しました。

大正15年といえば、まだこの旧国道が国道2号線として阪神間唯一の幹線でしたが、翌昭和2年には現在の国道2号線が開通していますので、なんとも微妙な時期に建立されたことになります。
ただし、県道に格下げされたとは言え、この旧国道には昭和40年代まで鳴尾地区と尼崎市内を結ぶ路線バスも多数通っていましたので、この道標の活躍した期間は意外と長かった言えるかもしれません。
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[池田市]篠山街道★大阪府で一番短い街道


池田を通る街道と言えば、落語『池田の猪買』で知られる能勢街道が有名です。
能勢街道は、大阪方面から来て池田市街を貫き、猪名川の手前で直角に折れて北に向いますが、その曲がり角を直進して猪名川に至る短い道があります。
それが篠山街道です。
長さわずか約100m、大阪府最短の街道ですが、池田から兵庫県下各地に通じる重要道路でした。


能勢街道との分岐点に道標があります。

「右能勢街道」「左篠山街道」とありますが、どちらも明治時代に大阪府が道路管理のために新たに命名したものですので、当然、この道標も明治時代の建立と言うことになります。
特に篠山街道は明治25年以降の名前ですので(明治20〜24年は「伊丹街道」、それ以前は「自池田村至同村呉羽橋街道」)、明治中期以後の可能性が高いと思われます。

亀岡街道と分かれて20mほどで国道173号線を渡ります。

北西の角に、大阪府内で現存する最古のうどん屋と言われる「吾妻」があります。
雑誌やTV番組等で報道されているのでご存知の方もあるかと思いますが、ここの名物は「細うどん(ささめうどん)」です。
細うどん自体は他の店のメニューまたは裏メニューにありますが、「吾妻」は京風のあんかけで、はまると病みつきになります。
なにぶん人気店であり、店も狭いので、お昼どきを外して行かれることをお奨めします。
また、店の駐車スペースに駐車するには、狭い篠山街道側から進入しますので、少々テクニックと根気が必要です。

数十メートル進むと猪名川の堤防に突当り、道は途切れます。
呉羽橋(別名、巡礼橋)は、以前はこの延長線上に架かっていました。

対岸は兵庫県です。
川の中央が県境で、それはかつての豊島(てしま)郡と川辺郡の郡境に由来します。
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[西宮市]苦楽園の明礬谷温泉道標

西宮市立郷土資料館発行の『西宮歴史散歩案内マップ』には、苦楽園五番町に「明礬谷温泉」道標があると記載されています。
西宮市内の街道や古道とは関係なくポツンと存在しているので、今まで未調査のままでしたが、今回、はじめて訪問してみました。
郷土資料館の合田氏によると、苦楽園市民館に頼めば見せてもらえるとのことでした。
なんのことかよく分からなかったのですが、行ってみて納得しました。
道標は市民館の中庭にあり、外からは見えないからでした。

とりあえず写真を撮り、ネットで検索してみると既に調査された方のレポートが見つかりました。
http://d.hatena.ne.jp/giolum/20080210/1202574880

さらに探ってみると、平成5年11月1日付『宮っ子』苦楽園版にこの道標についての詳しい説明が載っていました。
http://miyakko.nishi.or.jp/MIYAKKO-SYSTEM/Found_Page?gou=156&areacd=7&page=1

古い地形図を調べてみると、明治42年測量の地形図に「明礬温泉」が見つかりました。

道標では「明礬谷温泉」ですが、『大社村誌』にも、地形図と同様「明礬温泉」と書かれています。
現在の地図と重ね合わせてみると、苦楽園中学校の南西約500m、苦楽園三番町5番地あたりにあったようです。

ちなみに、「右○サ石山」は、昔、苦楽園にあった猿丸家の石切り場を示すと考えて間違いないありませんが、当時とは全く地形が変わってしまい、今ではその場所を探ることは難しいようです。
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